共に歩む連帯
脆弱な私たちが、違ったまま共に生きる
キーワード:連帯、脆弱性、二者性、共存、歓待、気遣い、相互性、work
1. 個人がバラバラとなり孤立している
人は誰もが、生きている限り、さまざまな個人のリスクを背負い続けます。
病気、障害、老い、離別、貧困、失業、孤独など、あらゆる生きづらさがあります。
病み、老い、衰え、誰かを失い、死を内包し、自分の力だけではどうすることもできないこともあります。そのように人は誰もが、生きるなかで苦しみ、悩み、迷い、ときに過ちや錯誤を繰り返しながら生きる脆弱な存在です。
それは、一部の「弱い人」だけの問題ではありません。
脆弱性は、すべての人間に共通する、人間存在そのものの条件です。
かつて日本社会では、こうした個人のリスクを、「地縁」である地域社会や、「社縁」である終身雇用を前提とした会社組織など、比較的強固なコミュニティが支えていました。
また、「血縁」という家族も大きな役割を担っていました。
しかし現在、これらのつながりは急激に薄れています。その背景には、個人主義の広がりや、単身世帯の増加があります。2020年の国勢調査では、一人暮らしである単独世帯は、一般世帯全体の約38%を占めています。
また、雇用の流動化が進み、非正規雇用の増加や転職の一般化によって、会社はかつてのように「生活の保障」や「居場所」としての役割を持ちにくくなりました。
さらに、ネット社会化が進み、表面的なつながりは増えた一方で、困ったときに助け合える人間関係が必ずしも増えているわけではありません。
家庭の機能も変化しています。
共働き世帯が増え、家族が担ってきた介護、子育て、教育、見守りなどの「福祉機能」が、社会サービスとして外部化されるようになりました。
それ自体は必要なことですが、一方で、家族や地域のなかで自然に営まれていた、気にかける、見守る、ちょっと助ける、といった互酬的な関係も薄れています。
そのうえ、新自由主義的な考え方のなかで、「自分の人生の結果は、自分の努力と選択の結果である」という自己責任や、過度な自立を求める社会の風潮も強くなっています。そのため、本当は人の助けが必要なのに、「助けて」と言いにくい状態も生まれています。
効率化や市場化によって、人と人との互酬関係は弱まり、教育や所得などの格差も固定化し、広がっています。
その結果、社会は「無縁社会」とも呼ばれるような状態となり、分断や孤立が進んでいます。内閣府の調査でも、孤独を感じている人は少なくなく、孤独・孤立は一部の人だけの問題ではなくなっています。
だからこそ、国も「孤独・孤立対策」を重要な政策として取り組むようになりました。このような現代社会において、個人は誰しも否応なしに、生命も、生存も、暮らしも、常に脅かされる可能性のなかに置かれています。まさに私たちは誰もが、生きることそのものに危うさを抱えた、脆弱(ぜいじゃく)な存在(Vulnerability)なのです。
しかし、この脆弱性は、単に人間の弱さを意味するものではありません。脆弱性は、連帯を必要とする根拠であると同時に、連帯を可能にする根拠でもあります。人は、本来、脆弱な存在だからこそ他者を必要とします。一人では足りないからこそ、異なる他者と出会い、互いに補い合い、影響を受け合います。
そして、異なる者同士が出会うところに、どちらか一方に同化するのではない、新しい関係や可能性が生まれていきます。そこには、一人では生み出すことのできなかった新しい
ものが立ち現れる、いわば「止揚」があります。
人は、誰かに気にかけられ、誰かを気にかけ、支えたり、支えられたりしながら生きていく存在なのです。

2.求められること
では、このような脆弱な一人ひとりが、個人や家族だけで生きるリスクを抱え込むのではなく、社会全体で支え合うためには、何が求められるのでしょうか。私たちは、単に支援制度を増やしたり、人をサービスにつなげたりするだけでは十分ではないと考えています。必要なのは、人と人との間に、もう一度関係をつくることです。 ① 求められるつながりのシステム
人は誰もが脆弱であり、一人では完結できません。支援する専門職も、家族も、地域住民も、誰もが迷い、傷つき、失い、ときには誰かの助けを必要とします。
だから求められるのは、個人や家族だけに責任を負わせず、必要なときには人に頼ることができ、社会全体で支え合う緩やかなセーフティーネットをつくることです。
それは、かつての村社会のように、同じ価値観や生き方を強要する共同体への回帰ではありません。
一人ひとりの自由や選択、主体性を守りながら、異なる人が、異なるまま共存できる社会をつくることです。
② 求められるつながりの関係性
しかし、同じ場所にいるだけでは連帯にはなりません。大切なのは、その人がどのような関係のなかで迎えられるかです。
まず、能力や属性、これまでの経歴によって人を評価する前に、「あなたは、あなたのまま、ここにいてよい」と、その存在を迎え入れる。私たちは、これを「歓待」と考えています。
歓待とは、相手を自分たちと同じにしてから受け入れることではありません。違う人を、違ったまま迎え入れることです。
そのとき、その人は「障害者」「高齢者」「生活困窮者」「元受刑者」といったカテゴリーではなく、一人の固有の「あなた」として現れます。
そして、「あなた」と「私」が出会います。
私たちは、この「あなた―私」の関係を「二者性」として大切にしています。連帯は、最初から「社会」や「みんな」から始まるものではありません。
目の前にいる一人の「あなた」と出会い、「あなたが苦しんでいる。そのあなたと出会った私は、もう無関係ではない」と感じるところから始まります。
そこに気遣いが生まれます。
ハイデガーが人間存在を「気遣い(Sorge)」として捉えたように、人は誰かを気にかけ、誰かから気にかけられながら生きています。
他者の苦しみを「その人だけの問題」として切り離さず、自分も関係する問題として受け止める姿勢が求められます。
しかし、気にかけることは、相手を自分の価値観に従わせることではありません。人はそれぞれ異なる人生を歩み、異なる価値観をもち、固有の世界を生きています。
その違いをなくすのではなく、違ったまま共にいることが共存です。
そして、共存するなかでは、「支える人」と「支えられる人」という関係も固定されません。
支えられていた人が誰かを支え、専門職が当事者から教えられることもあります。互いに与え、受け取り、影響を受けながら変わっていく。そこに相互性があります。
さらに、その相互的な関係のなかで、人は単に「支援される対象」ではなく、社会のなかで誰かに必要とされ、自分なりの役割を持つ存在になります。
私たちは、その営みを「work」として大切にしています。
このように、誰もが脆弱な存在であることを認め、互いを歓待し、「あなた」と「私」として出会い、気にかけ、違ったまま共存し、支えたり支えられたりしながら、それぞれが自分なりのworkを持つ。
その関係が人と人との間に広がり、循環していくことを、私たちは連帯と考えています。
連帯とは、同じになることでも、強い者が弱い者を救うことでもありません。
異なる私とあなたが、違ったまま、「私たちは無関係ではない」と共に生きていくことです。

3.ホッとスペース中原の模索
私たちは、単なる高齢者デイサービスや障害者支援といった「一つの福祉分野」にとどまらず、子どもから高齢者、障害のある人、子育て世代、さらには服役経験者までを受け入れる、多世代型・多様性型のコミュニティを展開しています。私たちが大切にしているのは、同じ属性の人を集め、支援する側にとって効率のよい仕組みをつくることではありません。
違う人が、違うまま共にいることです。
誰もが固有の世界と物語を生きています。そして、一人ひとりは、何万、何億というピースからなる大きなパズルの、かけがえのない一つのピースのような存在です。
一つとして同じピースはありません。形も違えば、置かれる場所も違います。その一つが欠ければ、本来の絵は完成しません。
私たちは、この一人ひとりの存在によって形づくられていく全体を、「人類のグランドデザイン」と考えています。
だから、一人ひとりが生きていること自体に意味と価値があります。そして、その人にしかない場所があり、その人にしか担えないworkがあります。
違いをなくして同じになる必要はありません。
むしろ、違うからこそ、その人にしか埋めることのできない場所があります。
違いを抱えたまま、共に生きること。
そこに私たちは、人間の存在の意味と価値、そしてworkを見ています。
① 共生型デイサービス
要介護の高齢者と障害のある子どもたちを、制度ごとに区分することなく、同じ空間で共に過ごしています。
そこでは、高齢者が一方的に支えられる存在でも、障害のある子どもが一方的に支援される存在でもありません。
高齢者が子どもを見守り、子どもの笑顔が高齢者を元気にします。
障害のある人と活動を共にすることで、違いのなかにあるハーモニーを知ります。
誰かの存在そのものが別の誰かの力となり、それが互いの生きる力を回復させることがあります。
そこに、「支える人」と「支えられる人」に分けられる以前の、人間本来の互酬的な支え合いが生まれます。
② シェアハウス
高齢者だけ、障害者だけというように、同質の生きづらさを抱えた人だけで暮らすのではありません。
要介護の認知症のある人、障害当事者、元受刑者、児童養護施設を卒業した人など、さまざまな背景を持つ人が、いわば「カオス」ともいえる状態で暮らしています。
ここでいう「カオス」とは、無秩序という意味ではありません。異質なものを排除せず、違いを違いのまま抱え込みながら、一つの生活をつくっていくということです。
違うからこそ、補い合えることがあります。誰かのできないことを、別の入居者が担う。
誰かが落ち込んでいれば、別の誰かが気づき、声をかける。
支援者だけが支えるのではなく、生活そのもののなかに互いを気にかける関係が生まれていきます。
ここで大切なのは、「違ったまま共にいる」ことで、そこに新しい関係や力が生まれることです。
③ 「支える側」と「支えられる側」の境界をなくす
「サービスを提供する専門職」と「サービスを受ける当事者」という一方通行の関係では、人が本来持っている尊厳や、「自分も誰かの役に立っている」という実感が失われてしまうことがあります。
ホッとスペース中原では、workを大切にしています。ここでいうworkとは、単なる賃金労働(Job)ではありません。社会のなかに自分の役割を持ち、誰かとの関係のなかで、「自分もこの社会をつくっている」と感じる営みです。
精神疾患のある人、発達障害や知的障害、身体障害のある人、ひとり親家庭、依存症の人、元触法者、外国につながりのある人たちも、一緒に職員として働き、共存社会を育んでいます。また、学生、要支援者、独居者など、多様な背景を持つ人たちがボランティアとしても活動し、シェアハウスに入居する人たちも、それぞれの形で役割を担っています。
このように、「利用者」「職員」「ボランティア」「地域住民」という境界をできるだけ緩やかにし、一人の「市民」として混ざり合うことを大切にしています。この多世代型で「共に生きる」実践は、人間性の回復と尊厳の保障を目指すものです。効率性や生産性が重視される社会のなかで、どのような状況にある人でも、「無意味な人はいない」「誰もが生きる意味と価値をもっている」と、存在そのものを承認し合う場をつくるのです。
人を「それ」として見るのではなく、「あなた」として出会い、その人にしかない社会的なworkの意味を、共に見つけていく。そこに私たちの実践があります。そこに「ケアの循環」が生まれ、脆弱性を持つ者同士が、互いの痛みや悲しみに気づき、分かち合い、補い合う。支えたり、支えられたりする。そのケアの循環が、地域の社会関係資本となっていくと私たちは考えています。
私たちは、そのような包摂的な「地域共生社会」を目指しています。
4.私たちが考える「共に歩む連帯」
私たちが出発点にしているのは、人間は誰もが脆弱な存在であるという人間理解です。
だから、誰かが一方的に誰かを支え、導くのではなく、互いに迷い、傷つき、ときには支えられながら、傍らで共に歩むことを大切にしています。
そこでは、「支える人」と「支えられる人」は固定されません。人と人とが出会い、気にかけ、影響を受け合うなかで、双方が変えられていきます。
私たちが考える連帯とは、同じになることではありません。
違ったまま、「あなたと私は無関係ではない」と認め合うことです。
そして、それぞれがかけがえのない一人として、自分なりのworkを持ちながら、共に一つの社会を形づくっていく。
支援の先に連帯があるのではなく、連帯という関係のなかに支援がある。
それが、ホッとスペース中原が目指す、「共に歩む連帯」です。
私たちは、当事者から学び、教えられるところから始めます。
脆弱な私たちが、違ったまま共に生きる。その関係の積み重ねから、誰も排除されない
「共に生きる関係」をつくっていきたいと考えています。





