ある日、私はいつものように谷さんの家を訪問しました。谷広美さん(仮名)は、93歳で要介護2の女性です。自室に伺うと、「よく来たね」と満面の笑顔で私を歓迎してくれました。そして、私の顔を見るなり、「元気がないけど、どうした?」と心配してくれたのです。
「いや…」
私は自分の胸の内を話すことをちゅうちょしましたが、谷さんの存在感に引き込まれたのか、気が付いたら自分の置かれている状況を打ち明けていました。
谷さんと出会った頃の私は、危機的な状況にありました。当時小学校5年生の息子が登校拒否になっていたのです。学校に行かない息子を何度も説得しましたが、息子はかたくなに行こうとしませんでした。このまま家に引きこもってしまうのかと考えると、焦る毎日でした。
私自身は非嫡出子という、社会的には不義の子として生まれました。また、幼少期は貧困のうえに、精神疾患を患った父親から虐待を受けて育ちました。ですからせめて自分の家庭の子どもだけはまっとうに育ってほしいと願っていたのです。それなのに、その夢がもろく崩れていくようで、失望に打ちのめされていました。
また、立ち上げた小さなNPO法人は、私の方針についていけないとう理由で、優秀なスタッフの何人かが辞め、赤字経営に陥り、事業は傾いていました。私は約2000万円の負債を抱え、どうしても実現したかった社会福祉にかける思いは露と消えるのではないか、と焦っていました。その上、日常生活では、ある大学の福祉学科の助教として、片道2時間かけて通うという多忙のなかにありました。大学で学んだ経験のない私は、大学という組織にも、教員という立場にも戸惑うことが多く、四苦八苦していました。
そんな無理をして心身を酷使していた私は、とうとう自律神経失調症になってしまったのです。私は突然やってくる冷や汗や頭痛、動悸(どうき)、吐き気、またそれがいつ来るのかという不安、食欲不振や不眠といったさまざまな症状に悩まされていました。健康だけがとりえの私がこんなことになることが信じられず、受け入れることができませんでした。自分のふがいなさと人生の非情さ、出口の見えない状況に悶々(もんもん)としていたのです。
「そうか。」
私の話を、谷さんは何度も深く頷いて聴いてくれました。
「無理はすんな。あんたはもう十分私らのためにがんばっているんだから。あんたの息子だって学校に行かなくたって、生きていればそれでいいんだ、いいんだよ」
何気ないありふれた言葉でしたが、私は身動きが取れなくなりました。その存在から生まれる言葉の深み、痛みを包み込む懐の深さ、そのあたたかみのある表情、静かな語り口調にある確信、しわくちゃであたたかな手のぬくもり、そして、きざまれた顔のしわ……。
谷さん自身の辛苦の体験から出てくるその存在感によって、私はすべてをやさしく包まれたような気がしました。その時、今まで自分を縛り苦しめていた何かが解かれ、膝をかがめ、声を震わせておえつしてしまいました。
谷さんは黙って私の傍らで、そっと私の手をとり、ポロポロと、ただ私と共に泣いてくれたのです。
「こんな豚小屋の様な場所にはいたくないよ。でも…この年で行く所もない。私、早く死にたい」
私が初めて訪問した時、谷さんは4畳半の薄暗い部屋で布団の上に座り、つぶやきました。
谷さんは東北地方に住んでいましたが、介護が必要となった谷さんを60歳代の息子さんが心配し、約半年前に息子さんの住む川崎市に引っ越してきたのです。
「豚小屋」と表現した部屋は、郊外に立ち並ぶ築約50年の古びた3DKの家の、日が当たらない北側にありました。部屋には、たんすや結婚して家を出たお孫さんの衣類、ダンボール箱が所狭しと積み上げられていました。谷さんの部屋は元々倉庫だった部屋で、そこに何とか布団を半分に折った場所を確保し、やっと身を横にして寝るしかない状況でした。部屋には、失禁による尿臭がしていました。谷さんは、布団から起き上がると、背中を丸め、しわくちゃな顔で、眼をしょぼしょぼさせながら、私の質問に東北なまりでぼそぼそと答えてくれました。
谷さんは、東北地方の小さな山間の村に生まれました。両親は小さな畑を借りて小作として働いていました。家は貧しく、長女だった谷さんは、産まれてきた兄弟を背負い、農作業の手伝いや家事を強いられ、ほとんど学校に行けませんでした。「だから私は字が書けないんだよ。難しいことも分からない」と話していました。
12歳で繊維産業に就労し、女工として働きました。安い賃金で朝から晩まで12時間も、過酷で劣悪な労働条件で働いたのです。
「自分は人減らしにされないだけましだった。しょうがなかったんだよ」とも言っていました。
19歳で結婚。結婚3か月で夫は戦地に赴き、フィリピンで戦死。戦地から無言で帰ってきた骨つぼには、遺骨の代わりに腕時計が入っていました。
しばらくしてお見合いで再婚。再婚の夫は3歳年下のサラリーマンでした。普段はおとなしいのに、お酒が好きで、家に帰ってくれば暴れるので、谷さんは逃げ回りました。また、女癖も悪く、何度も外に女性をつくって家に帰ってきませんでした。それでも谷さんは、家を建て、息子3人を大学まで出したのです。80歳代の時、夫は糖尿病や脳梗塞になりました。谷さんは複雑な思いでしたが、最後まで看取りました。そんな折、息子さんから「母さんが良かったら来ないか」と誘われて川崎の地に来たのです。
谷さんの傍で泣きながら、私はひたすら思い巡らせていました。
私は今まで、谷さんに何をしてきたんだろうか。この目で、谷さんの何を見ていたのだろうか。ただ老いて、身体が不自由になり、日常生活で失禁し、「豚小屋のような」場所で生きている、介護を必要とする弱い人という一側面ばかりに目を注いで、それで介護をしているつもりになっていたのではないか。私は、利用者さんを「英知に溢れた聡い(さとい)存在」という視座で見たことがあっただろうか。利用者さんが私を癒し、心の眼を開き、成長や幸福を与えてくれる相手だと本気で捉えていただろうか。利用者さんとは介護サービスを一方的に受けるにすぎず、自分とは対岸にいる存在として考え、かかわり続けたにすぎないのではないだろうか。
私は、谷さんとのかかわりを通して、浅はかな自分の介護観と人間観をえぐり出され、問いかけられた気がしたのです。私は、自分の愚かさに気づかされたのです。
「理解する」を英語で「under stand」といいます。「下へ」という意味の「under」と、「立つ」という意味の「stand」からできている言葉なのです。利用者さんは、老いと病と死を目の前にし、戸惑い、つまずき、行き詰まり、人生のどん底でうめいています。
介護職でありながら私自身は、その利用者さんの「下」(under)に降り、「立つ」(stand)ことを怠り、かえって見下ろし、専門家の顔をして「こうしたらよい」とアドバイスや知識の提供ばかりしていたのではないだろうか。介護職は、そこに介護を必要とする人がいれば、それが誰であったとしても、高みからではなく、その人のいるどん底に降りていき、かがみ込んでいるその人の下に立ち続ける、「understand」することが必要なのです。そうして「そうだったんだね」と同じ景色を下から見る、その時にこそ、同じことで悩み、心を痛め、泣くことができるのです。私は谷さんを通して、心情を知り、下に立つことの大切さを実感することができたのです。
また谷さんは、人間として思いやる、気に掛ける、心を配るということの大切さも教えてくれました。挨拶をする、顔を見つめる、ほほ笑む、足を止める、やさしい言葉で話しかける、耳を傾ける、ねぎらう、感謝する、ふれあうという、小さな介護行為。その人の苦痛を知って、自分の心を痛め、共に泣いてくれる人がいるということ、ここに科学や経済では成し得ない、人間同士でしか成し得ない、癒しの可能性をみることができるのです。
人は、痛みを分かち合うことでしか癒すことができない宿痾(しゅくあ)(長く治らない病気、課題)を抱えています。介護という仕事は、利用者さんと介護職が、サービスを受ける側と提供する側という立場を超えて、お互いに一人の人間として向き合い、痛みを分かち合うことで共に豊かになっていけるという、貴重な可能性を秘めています。その意味で、現代社会が見失いかけている人間の本質、老いてこそ今、そこにある利用者さんの癒しの力、私が「understand」してさえいたら、介護という仕事にはいつでも、その利用者さんの力を学ぶ機会に溢れています。
谷さんをはじめ、多くの利用者さんは、あらがえない運命に翻弄(ほんろう)されています。また、長い人生の道のりで挫折を重ね、最後には老いて凋落(ちょうらく)していきます。人は誰でも、挫折の度に、「なぜ自分がこんな目に遭わなければならないのか」「自分はなぜ生きなければならないのか」「この苦しみにはどういう意味があるのだろうか」そんな存在の痛みを担い続け、高齢期に「絶望」を味わいます。
しかし、立ち尽くし混迷し「絶望」することに理由があると、H.エリクソンという心理学者が説明しています。
高齢期は、「絶望」することで「英知(本質を見抜く知恵)」が育まれ、人生の神髄を見いだすというのです。その「英知」によって、同じように人生に苦悶(くもん)し混迷している「誰か」を癒すために、「老いの苦痛」があるのです。そして、誰かを癒やすことによって初めて、「自分の人生の苦労が誰かの役に立った」と思えて、利用者さん自身の今まで捨て去りたかった人生の非情さの苦労は報われるのです。その時やっと新しい価値観で、自分なりの人生を「これでよかった」と人生を肯定する人生の「統合」が生まれ、受け入れることができるのです。
利用者さんの老いの苦しみから生まれる産声、自分の命と生活さえままならない中にあるからこそ、その存在が私たちを癒し、励まし、力づけてくれます。また、利用者さんの「英知」は、時代を超え、世代に息づき、人類の英知となっていきます。
だからこそ介護職員は、老いの苦痛から生まれる利用者さんの「英知」を受け止め、受け継いでいくことが求められています。「英知」を、私たちも、また、社会も必要としているのです。
だから私は今日も、明日も、これからも、利用者さんの痛みから産み出されてくる尊い「英知」を、私自身が積極的に分かち合い、しんどいけれど痛みを共有したい。それを続けることで生まれるものを大切に、私は介護を続けていきたいのです。
ただ、共に泣いてくれた